パネルディスカションの時間に、私がお話したのは、「援助職としてこそ、アサーティブネスが必要である」ということでした。
クライエントさんやかかわっている人たちがアサーティブになるお手伝いをすることは、援助職にとっての重要な課題です。私自身も最初はそこに立っておりました。
しかし、私は次の2つの意味で、アサーティブネスが援助職にとってこそ重要だと思っています。
一つは、援助職として境界線(バウンダリー)を引くことができる力としてのアサーティブネスです。つまり、自分のできること(イエス)と自分ができないこと(ノー)を認識し、それをきちんと言語化できる能力のことです。
私自身がソーシャルワーカーとして働いてきた現場で、最も強調して教えられたのがこのことでした。相手の問題を解決しようとがんばればがんばるほど、実は相手の境界線に踏み込んでいる事実。あるいは、反対に、自分のできる範囲を超えて引き受けてしまい、燃え尽きてしまう事実。
自分の境界線をきちんと引くためには、アサーティブである必要があると思うのです。
もう一つは、援助者は人権という視点を持って対人援助にかかわる必要があるということです。
アサーティブネスの考え方の根底に、人権擁護の視点があります。アメリカで100万部以上売れた、アサーティブネスの古典と言われる本のタイトルは、『Your Perfect Right』。「あなたの完全な権利」というこの本は、日本語に邦訳されて、『自己主張トレーニング』というタイトルになりました。また、アン・ディクソン氏の著書であり、ヨーロッパのアサーティブネスの原点となった『A Woman in Your Own Right』は、邦訳が『第四の生き方』となりました。日本では「権利」という言葉がタイトルにつくと、売れないということなのでしょうか。
日本では、実は私たちの意識の底に「権利」という言葉が根づいていない。それほどまでに敬遠される「権利」を、援助者自身が身につけ、自分の権利を尊重し、相手の権利を尊重するというスタンスに立つことが、実は援助することの最も根本的な営みだと思うのです。
そうした視点でアサーティブネスを考えると、「どう言うか」というコミュニケーションのハウツー以前の、根本的な人間尊重の思想が見えてくると思います。
援助職こそアサーティブネスを
アン・ディクソン氏の言葉
昨日の未来館での「女性のキャリア開発とアサーティブネス」の講演会とパネルディスカションは、とても心に残る時間となりました。
24日にアン・ディクソン氏が無事来日し、昨日の講演会が初日でした。250名の定員に310名が参加し、それでもキャンセルが何名も出たというくらい、大変盛況なものになりました。アン・ディクソン氏は、「仕事と女性」という切り口で、職場において女性たちになぜアサーティブネスが必要なのかということを、明解にお話されました。
私自身が好きだったのは、彼女がこんな風に言ったことです。
「私たちにはいつも“不安”があり、その不安をどう扱うかがキーとなります。つまり、不安を感じていても、感じながら、それでもあえて言ってみることが大切なのです。胸がドキドキしながら、心臓がバクバクしながら、そして喉がからからになりつつも、それでも『私はこう思う』と言葉に出すことが、私たちの中の自信を高め、そして小さな変化を生み出すことになるのです」
「きれいに」「正しく」言うことではありません。間違えるかもしれない、相手がどう思うだろう、自分が嫌われるかも、という多くの女性たちが感じる思いを、それを無視することもなく、ない振りをするのでもなく、自分が感じていることをそのまま受け止めつつ、そして、自分が伝えたいことは大事なことであるというところにたって、伝えること。
誠実さと率直さ、そして対等な立場で伝えようと努力すること。
それこそが、アサーティブな姿勢であると、彼女は話してくれました。
自分の心に誠実に向き合い、そしてあきらめずに伝えてみること。攻撃的になることもなく、黙り込むこともなく、しっかりと堂々と、伝えてみること。
そんな、アサーティブネスの原点に再度触れることができて、私自身も大変感動した午後でした。
24日にアン・ディクソン氏が無事来日し、昨日の講演会が初日でした。250名の定員に310名が参加し、それでもキャンセルが何名も出たというくらい、大変盛況なものになりました。アン・ディクソン氏は、「仕事と女性」という切り口で、職場において女性たちになぜアサーティブネスが必要なのかということを、明解にお話されました。
私自身が好きだったのは、彼女がこんな風に言ったことです。
「私たちにはいつも“不安”があり、その不安をどう扱うかがキーとなります。つまり、不安を感じていても、感じながら、それでもあえて言ってみることが大切なのです。胸がドキドキしながら、心臓がバクバクしながら、そして喉がからからになりつつも、それでも『私はこう思う』と言葉に出すことが、私たちの中の自信を高め、そして小さな変化を生み出すことになるのです」
「きれいに」「正しく」言うことではありません。間違えるかもしれない、相手がどう思うだろう、自分が嫌われるかも、という多くの女性たちが感じる思いを、それを無視することもなく、ない振りをするのでもなく、自分が感じていることをそのまま受け止めつつ、そして、自分が伝えたいことは大事なことであるというところにたって、伝えること。
誠実さと率直さ、そして対等な立場で伝えようと努力すること。
それこそが、アサーティブな姿勢であると、彼女は話してくれました。
自分の心に誠実に向き合い、そしてあきらめずに伝えてみること。攻撃的になることもなく、黙り込むこともなく、しっかりと堂々と、伝えてみること。
そんな、アサーティブネスの原点に再度触れることができて、私自身も大変感動した午後でした。
いよいよ来日
アン・ディクソンの講演会とワークショップの日程が、いよいよ近づいてまいりました。明日、24日の夜には彼女が到着し、金曜日の未来館での基調講演を皮切りに、東京、横浜、大阪、京都などでの講座が始まります。
事務局では最後のつめの段階で、日々大忙しでいます。先週末から今日まで、担当者一同キリキリ状態。事務所の中で歩くスピードまであがって小走りとなり、「部屋の中で走ってどうするのよ」と、スタッフに止められることも何度かありました。
とはいえ、やることがあまりにもあって気持ちばかりが焦ります。
今回の講演会やワークショップは予想以上に反響が大きく、東京や横浜での講演会の申し込みは、申し込み開始日から数日で満席になるなど、みなさんの関心の高さをひしひしと感じました。大阪での講演も、最近までお電話でのお申し込みが続き、「キャンセル待ちもしていない状況なんです」と、半ば泣きそうになりながらスタッフが対応する一面もありました。
彼女の新しい本も、明日には見本が出来上がり、今月末から販売が開始されます。翻訳と編集に関わった私たちも、どんな本になるのか楽しみで仕方がありません。
さて、週末は都内は大雪でしたが、ここ国立の事務所での応用講座には全員の方が参加されました。私も週末は、ある大学での学生たちの講義を担当し、真摯でまっすぐな彼らにたくさんのことを学ぶことができた有意義な1日を過ごしました。
そうした地道な活動を土台として、再度、アン・ディクソン氏の口から直接アサーティブネスについての話を聞くことができるのは、私自身もとてもわくわくすることです。人とひととの根本的な対等性について、彼女の言葉で語ってくれることを、私も心待ちにしています。
成田空港が雪で閉鎖されていたニュースにはらはらしましたが、もう大丈夫な様子。明日は彼女の元気な顔を見られることを祈って、最後の仕上げ作業を続けることにしましょう。
事務局では最後のつめの段階で、日々大忙しでいます。先週末から今日まで、担当者一同キリキリ状態。事務所の中で歩くスピードまであがって小走りとなり、「部屋の中で走ってどうするのよ」と、スタッフに止められることも何度かありました。
とはいえ、やることがあまりにもあって気持ちばかりが焦ります。
今回の講演会やワークショップは予想以上に反響が大きく、東京や横浜での講演会の申し込みは、申し込み開始日から数日で満席になるなど、みなさんの関心の高さをひしひしと感じました。大阪での講演も、最近までお電話でのお申し込みが続き、「キャンセル待ちもしていない状況なんです」と、半ば泣きそうになりながらスタッフが対応する一面もありました。
彼女の新しい本も、明日には見本が出来上がり、今月末から販売が開始されます。翻訳と編集に関わった私たちも、どんな本になるのか楽しみで仕方がありません。
さて、週末は都内は大雪でしたが、ここ国立の事務所での応用講座には全員の方が参加されました。私も週末は、ある大学での学生たちの講義を担当し、真摯でまっすぐな彼らにたくさんのことを学ぶことができた有意義な1日を過ごしました。
そうした地道な活動を土台として、再度、アン・ディクソン氏の口から直接アサーティブネスについての話を聞くことができるのは、私自身もとてもわくわくすることです。人とひととの根本的な対等性について、彼女の言葉で語ってくれることを、私も心待ちにしています。
成田空港が雪で閉鎖されていたニュースにはらはらしましたが、もう大丈夫な様子。明日は彼女の元気な顔を見られることを祈って、最後の仕上げ作業を続けることにしましょう。
フィフティ・フィフティ
ある雑誌の取材を受けていて、気づいたことがありました。コミュニケーションで困っている人たちの悩みは、「こんな人をどうしよう」というアプローチだということです。
例えば・・・
「高圧的な人をどうしよう」
「ひとの気持ちがわからない人をどうしよう」
「おせっかいな人をどうしよう」
どうしたら、こんな人を何とか(“操作”したり“攻略”したり)することができるのでしょうか、というものです。
確かにこのような「人」がいて、私たちは、「まったく、あの人ったら・・・」と腹を立てることはあるでしょう。問題は「相手」であり、「この人が、もう少し○○であったら」と願うこともよくあります。
「あの人が、もう少し積極的になってくれたら」
「もっと上司らしく振舞ってくれたら」
「前任者のようにやる気を出してくれたら」
しかし、本当にそうなのでしょうか。
こちらの理想を相手に投影して、「こんな人になってほしい」という要求をこちらが持ち続ける限り、問題は相手にあり、相手が変わらない限りは関係も変わらないことになるでしょう。
人間関係はどの関係も、フィフティ・フィフティであると考えたら、どうなるでしょうか。つまり、「おせっかいな人」を放っておくのも自分、「あなたのこの行為は、私はいやだから、やめてほしい」と言って、相手のおせっかいぶりにNoと言うのも自分です。
つまり相手を変えることはできなくても、相手に対する自分の行動は変えることが可能であり、更に言えば、状況に対する自分の行動を変えることのほうが、実はずっと簡単で手っ取り早いということです。
おせっかいにしているのは、誰でしょうか。相手が「悪い」という言い方ではなく、「あなたの態度の○○に私は××と感じているから、□□してほしい」と、きちんと、アサーティブに伝えることが、実は一番の近道であると思っています。
例えば・・・
「高圧的な人をどうしよう」
「ひとの気持ちがわからない人をどうしよう」
「おせっかいな人をどうしよう」
どうしたら、こんな人を何とか(“操作”したり“攻略”したり)することができるのでしょうか、というものです。
確かにこのような「人」がいて、私たちは、「まったく、あの人ったら・・・」と腹を立てることはあるでしょう。問題は「相手」であり、「この人が、もう少し○○であったら」と願うこともよくあります。
「あの人が、もう少し積極的になってくれたら」
「もっと上司らしく振舞ってくれたら」
「前任者のようにやる気を出してくれたら」
しかし、本当にそうなのでしょうか。
こちらの理想を相手に投影して、「こんな人になってほしい」という要求をこちらが持ち続ける限り、問題は相手にあり、相手が変わらない限りは関係も変わらないことになるでしょう。
人間関係はどの関係も、フィフティ・フィフティであると考えたら、どうなるでしょうか。つまり、「おせっかいな人」を放っておくのも自分、「あなたのこの行為は、私はいやだから、やめてほしい」と言って、相手のおせっかいぶりにNoと言うのも自分です。
つまり相手を変えることはできなくても、相手に対する自分の行動は変えることが可能であり、更に言えば、状況に対する自分の行動を変えることのほうが、実はずっと簡単で手っ取り早いということです。
おせっかいにしているのは、誰でしょうか。相手が「悪い」という言い方ではなく、「あなたの態度の○○に私は××と感じているから、□□してほしい」と、きちんと、アサーティブに伝えることが、実は一番の近道であると思っています。
アサーティブネスは何のため?
先週末には、第3回目のアサーティブネストレーナー養成講座がありました。アサーティブネスを使ったファシリテーターとしての訓練をすることは、とりもなおさず、“どこに立って”自分は伝えたいのかを、明確にしていく作業でもあります。
なぜ、何のために、どんな社会を目指して、私たちはアサーティブネスを伝えていきたいのでしょうか。
そこで、参加者の方に、自分のミッションを言葉で表現してもらいました。それぞれの思いがあふれ出ていて、とても感動的だったので、ここに少しだけご紹介したいと思います。
---------------------------
□私は、当事者とソーシャルワーカーが、お互いに対等感を持ってサービスの選択、サービス提供のできる風土を作ります。
□私は、まずは、私の職場の人が、「おかしい」と思ったことを、話し合えるようになることを目指します。
□私は、子育て中の親、特に、母親との出会いの中で、イライラしている原因は何か、本当に言いたい人は誰か、誰に何を言えないがためにイライラしているのか、ストレスになっているのか、気づき、行動を変えていく、実践していく力をつける機会を作りたい。幸せに、その人らしく、相手を認め、自分も認められて生きていってほしい。
□私はビジネスの世界の中で、アサーティブに伝えられないばかりに無用なストレス、誤解、我慢をして、退職・うつ病・転職などをする人、あるいは社会的に成功しているような人でも、家庭では会話のない夫婦・冷え切った家族関係を続けている人がいるので、そんな人たちにロールモデルとして、アサーティブネスの思想を伝えていきたい。
□私は、普通からはずれることで、自分を卑下しているマイノリティが、はずれることにむしろ誇りを持つスーパーマイノリティとなること、更に全ての人が互いの違いをリスペクトし合える社会を目指したい。
□私は、私と同じようにDVで苦しんだ人たち、また、道を探している若い人たちが、ありのままの自分を認め、そして自分自身を愛することができるよう、手助けしたい。
---------------------------
みなさんのそれぞれの思いを聞きながら、私自身も「私は何を大事にしていきたいのか」と、再度深く考えさせられた週末でした。
なぜ、何のために、どんな社会を目指して、私たちはアサーティブネスを伝えていきたいのでしょうか。
そこで、参加者の方に、自分のミッションを言葉で表現してもらいました。それぞれの思いがあふれ出ていて、とても感動的だったので、ここに少しだけご紹介したいと思います。
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□私は、当事者とソーシャルワーカーが、お互いに対等感を持ってサービスの選択、サービス提供のできる風土を作ります。
□私は、まずは、私の職場の人が、「おかしい」と思ったことを、話し合えるようになることを目指します。
□私は、子育て中の親、特に、母親との出会いの中で、イライラしている原因は何か、本当に言いたい人は誰か、誰に何を言えないがためにイライラしているのか、ストレスになっているのか、気づき、行動を変えていく、実践していく力をつける機会を作りたい。幸せに、その人らしく、相手を認め、自分も認められて生きていってほしい。
□私はビジネスの世界の中で、アサーティブに伝えられないばかりに無用なストレス、誤解、我慢をして、退職・うつ病・転職などをする人、あるいは社会的に成功しているような人でも、家庭では会話のない夫婦・冷え切った家族関係を続けている人がいるので、そんな人たちにロールモデルとして、アサーティブネスの思想を伝えていきたい。
□私は、普通からはずれることで、自分を卑下しているマイノリティが、はずれることにむしろ誇りを持つスーパーマイノリティとなること、更に全ての人が互いの違いをリスペクトし合える社会を目指したい。
□私は、私と同じようにDVで苦しんだ人たち、また、道を探している若い人たちが、ありのままの自分を認め、そして自分自身を愛することができるよう、手助けしたい。
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みなさんのそれぞれの思いを聞きながら、私自身も「私は何を大事にしていきたいのか」と、再度深く考えさせられた週末でした。
時代をどう読むのか
香山リカ著、『貧乏くじ世代〜この時代に生まれて損をした?』(PHP新書)を読んでいて、なるほどと思ったことがありました。香山さんは、団塊ジュニアの世代を『貧乏くじ世代』と呼んで、その世代の特徴や今後の課題と展望等を述べているのですが、その中でこんなくだりがありました。
「書店にあるこの世代向けの本は、『社会をこう読む』ではなくて、『上司とはこう話す』『彼女にはこう接する』といった(中略)“等身大”なマニュアル本が多くある」。
確かにそうだと思いました。
私が大学生だった20年前、社会学を専攻していましたので、こむずかしい本を一生懸命読み、今の時代をどう読みとりどのように見るのかということが、学生の最大の議論のポイントでした。
1980年代の後半から90年代初めにかけて、私はヨーロッパに滞在していました。当時、東ドイツのベルリンの壁を見に行ったり、またベルリンの壁が崩れ去ったあと再度訪れてその形跡を見たり、あるいはポーランドのアウシュビッツを訪れて、人類が犯した罪などについて色々と思いをはせたりしたのを覚えています。
東西ベルリンの壁がなくなり、ヨーロッパが激変をとげ、ソ連がなくなり、など、ヨーロッパにいるからこそ見えてくることもあり、だからこそ、「時代をどう読むのか」「私たちはどこに向かおうとしているのか」ということを考えることで、おのずと「どう伝えるのか」などはついてきたような気がするのです。
この20年の間に、日本では「時代をどう読むか」などのテーマは堅苦しいものとなって敬遠され、より身近な職場や人間関係で、「どう伝えるか」ということのスキルがもてはやされるようになって来ました。どう考えるか、ではなく、どう伝えるか、ということに重きが置かれるようになったというべきでしょうか。
インターネットなどの普及によって、“世界”は急激に広くなったと同時に、自分という人間とかかわる“生きた”世界は、かえって狭くなっているような気がします。世界や自分を取り巻く時代を見るよりも、今の、自分の周りの関係ばかりがクローズアップしてきているのでしょうか。
しかし、「どう考えるか」抜きに、「どう伝えるか」はありえません。私が何を感じ、考え、どうしたいのか(意思)が自分の中ではっきりしていない限り、伝え方だけを手に入れても、文字通り“絵に描いた餅”でしかありません。
どう伝えるかの前に、自分は何を感じ、考えているのか。世界をどう見るのか。時代をどう読むのか。そんなことを、団塊ジュニアの世代の方がたにはぜひとも鍛えていただきたいと思います。
「書店にあるこの世代向けの本は、『社会をこう読む』ではなくて、『上司とはこう話す』『彼女にはこう接する』といった(中略)“等身大”なマニュアル本が多くある」。
確かにそうだと思いました。
私が大学生だった20年前、社会学を専攻していましたので、こむずかしい本を一生懸命読み、今の時代をどう読みとりどのように見るのかということが、学生の最大の議論のポイントでした。
1980年代の後半から90年代初めにかけて、私はヨーロッパに滞在していました。当時、東ドイツのベルリンの壁を見に行ったり、またベルリンの壁が崩れ去ったあと再度訪れてその形跡を見たり、あるいはポーランドのアウシュビッツを訪れて、人類が犯した罪などについて色々と思いをはせたりしたのを覚えています。
東西ベルリンの壁がなくなり、ヨーロッパが激変をとげ、ソ連がなくなり、など、ヨーロッパにいるからこそ見えてくることもあり、だからこそ、「時代をどう読むのか」「私たちはどこに向かおうとしているのか」ということを考えることで、おのずと「どう伝えるのか」などはついてきたような気がするのです。
この20年の間に、日本では「時代をどう読むか」などのテーマは堅苦しいものとなって敬遠され、より身近な職場や人間関係で、「どう伝えるか」ということのスキルがもてはやされるようになって来ました。どう考えるか、ではなく、どう伝えるか、ということに重きが置かれるようになったというべきでしょうか。
インターネットなどの普及によって、“世界”は急激に広くなったと同時に、自分という人間とかかわる“生きた”世界は、かえって狭くなっているような気がします。世界や自分を取り巻く時代を見るよりも、今の、自分の周りの関係ばかりがクローズアップしてきているのでしょうか。
しかし、「どう考えるか」抜きに、「どう伝えるか」はありえません。私が何を感じ、考え、どうしたいのか(意思)が自分の中ではっきりしていない限り、伝え方だけを手に入れても、文字通り“絵に描いた餅”でしかありません。
どう伝えるかの前に、自分は何を感じ、考えているのか。世界をどう見るのか。時代をどう読むのか。そんなことを、団塊ジュニアの世代の方がたにはぜひとも鍛えていただきたいと思います。
明けましておめでとうございます
2006年が新たに始まりました。アサーティブジャパンも本日4日まで、新年のお休みをいただいています。この週末は、トレーナー養成講座の宿泊研修があり、それが終わると、いよいよアン・ディクソンプロジェクトが一斉に始まります。
さて、みなさんの今年の目標は何でしょうか。
私自身、去年は、「書く」ということが最大のキーワードとなりました。アサーティブネスを伝える仕事を始めて10年たった総まとめとして、本を3冊書き上げ、また昨年の年末ぎりぎりまでかかって、アン・ディクソンの最新所の監訳も行いました。
思いおこせば、私は子どものころから「書く」ということが苦手で、作文が大嫌いな子どもでした。「自分は書けない」、「文章が下手」と信じて、書くという行為から自分を遠ざけていたような気がします。しかし、この仕事をするようになって、伝えたいことをわかりやすく自分の言葉で表現するようになると、「書く」という作業は、実は、伝えたいことをそのまま飾らずに、まっすぐ言葉に落とす作業であるということに気づきました。
それからもう一つ気づいたことがあります。
それは、自己表現するということは、日々の日常生活の中で“感じる力”をつけること抜きにはありえないということです。嬉しいのか悲しいのか、腹がたつのか悔しいのか。いろんなことに対して豊かに感じる心を持つということです。
そして感じたことについて、自分はどうしたいのかをしっかり考え、必要な行動に移してみることだと思います。
行動するとは、これまであきらめ黙っていたことをあえて相手に伝えてみることであったり、まあいいや、と飲み込んできたことを、きちんと表現してみることであったりします。または、自分がいやだと感じたことについて、はっきりと「いやだ」と伝えてみることかもしれません。
そんなことを、今年も引き続きやってみたいと思います。
どうぞ皆様、今年もよろしくお願いします。
さて、みなさんの今年の目標は何でしょうか。
私自身、去年は、「書く」ということが最大のキーワードとなりました。アサーティブネスを伝える仕事を始めて10年たった総まとめとして、本を3冊書き上げ、また昨年の年末ぎりぎりまでかかって、アン・ディクソンの最新所の監訳も行いました。
思いおこせば、私は子どものころから「書く」ということが苦手で、作文が大嫌いな子どもでした。「自分は書けない」、「文章が下手」と信じて、書くという行為から自分を遠ざけていたような気がします。しかし、この仕事をするようになって、伝えたいことをわかりやすく自分の言葉で表現するようになると、「書く」という作業は、実は、伝えたいことをそのまま飾らずに、まっすぐ言葉に落とす作業であるということに気づきました。
それからもう一つ気づいたことがあります。
それは、自己表現するということは、日々の日常生活の中で“感じる力”をつけること抜きにはありえないということです。嬉しいのか悲しいのか、腹がたつのか悔しいのか。いろんなことに対して豊かに感じる心を持つということです。
そして感じたことについて、自分はどうしたいのかをしっかり考え、必要な行動に移してみることだと思います。
行動するとは、これまであきらめ黙っていたことをあえて相手に伝えてみることであったり、まあいいや、と飲み込んできたことを、きちんと表現してみることであったりします。または、自分がいやだと感じたことについて、はっきりと「いやだ」と伝えてみることかもしれません。
そんなことを、今年も引き続きやってみたいと思います。
どうぞ皆様、今年もよろしくお願いします。