ここ最近、ビジネススキルの一つとして、アサーティブネスが大変注目されています。それはそれでいいのですが、スキル系に走る傾向に、私は「ちょっと待ってよ」と言いたくなるのです。
コミュニケーションといえば、話す技術、伝える技術、好かれる技術、プレゼン技術、(私自身も『「No」を上手に伝える技術』という本を書いていますが)、聞く技術などなど、こんなスキルを取得すれば必ずやあはなたコミュニケーションの達人!であるごとくの書籍が、書店に山積みになっています。
そんな現状を見ながら、やっぱり私はどこかで「まずいよ」と思っているのです。
スキル系は確かに役に立つ部分があります。アサーティブネスだって、シンプルで使いやすいコミュニケーションのスキルですし、伝えるポイントを身につければコミュニケーションは確かにうまくなる。
しかし、根本的な「人間関係とは何か」という土台がなくて、スキルもないだろうと私は思うのです。
20代の方々とお話ししていると特にそう思うのですが、「話が通じなければ人間関係を切ればいい」と考えている若い人たちの何と多いこと。確かに50代の団塊世代のオヤジたちのくだらない愚痴や文句を聞くために飲み会につき合うのはごめんだという気持ちも、私はよーくわかります。
しかし、じゃ、つき合わなくていいのかというとそうでもないでしょう、とも思うのです。
「人間関係とは何か」という根本的な哲学があってこそ、スキルも生きてくるはず。
いやでもつき合う、話が通じなければけんかもする、とことん議論する、一月くらいして自分の非を理解して相手に頭を下げる、自分の至らなさに歯ぎしりする。
そんな一つひとつの泥臭い作業をしない限り、本当の相互理解などできっこない。
そのためにこそコミュニケーションはあるのだし、試行錯誤しながら葛藤しながら「それでも話し始める」しかないのではないでしょうか。
ビジネスのスマートなスキルだけではなく、泥臭い人間関係をどうして、なぜ、持つ必要があるのか、そんな哲学についてもしっかりと考えていただければと思っています。
哲学なくしてスキルなし
前世紀の人間
こちらのブログからトラックバック。内田先生の切り口はいつも面白く、考えさせられること大です。
「フェミニズムを知らない」という学生たち。ここ数年、大学の1年生たちにコミュニケーションを教えるようになって、私自身も実は同じような場面で困っているところです。
アサーティブネスは、1960年代の黒人の人権擁護運動や70年代のフェミニズム運動の流れの中から生まれてきて、自分の意見や感情を伝えることは、人として当たり前の権利であるという人権擁護のスタンスに立っています。
私自身、高校生のときからかなり社会的な活動をやっていましたし、6歳年上の姉はまさに「男女雇用機会均等法」世代第一号の女性ですから、“フェミニズム”という言葉は、私が十代の頃から当たり前のように周りにありました。
1980年代後半、学生時代に私は初めて海外に出ました。インターナショナルスクールで「東西の冷戦問題をどう解決するのか」とか、「南アフリカのアパルトヘイトの現状はどうか」についてのディスカションを熱く行った記憶があります。80年代はまだ、“二つの大戦を越えて”とか“激動の20世紀”などという概念を実感できる時代でした。
私が20代で体験した強烈なコミュニケーションギャップは、文化の違いや社会の構造と深く結びついていました。だからこそ、「アサーティブネス」=「主張する権利」が、ものすごくピンときたのです。
21世紀に入り、前世紀の言葉は急激に色あせてきました。対話を積み重ねて社会の問題を解決しようという時代から、どうせ「格差社会」、何かを変えるために面倒くさい話をするよりも、現状で、言葉の伝わる範囲でハッピーに生きればいいという時代になってきている気がします。
自分の伝えたいことが伝わらないもどかしさを、社会的な差別や社会システムからひるがえって考えるという作業は、今の学生たちや20代の人たちには「実感のわかない」作業なのかもしれません。
アメリカやヨーロッパでは、他民族、多文化共生社会の中で、いやおうなくコミュニケーションの難しさに直面する日常があります。今なお続く移民問題も地域紛争も、人とひととの対話や人権問題抜きに語ることができないのに。
そんなことをどういう風に学生たちに伝えられるのだろうか。
前世紀の人間である私は、一生懸命考えています。
「フェミニズムを知らない」という学生たち。ここ数年、大学の1年生たちにコミュニケーションを教えるようになって、私自身も実は同じような場面で困っているところです。
アサーティブネスは、1960年代の黒人の人権擁護運動や70年代のフェミニズム運動の流れの中から生まれてきて、自分の意見や感情を伝えることは、人として当たり前の権利であるという人権擁護のスタンスに立っています。
私自身、高校生のときからかなり社会的な活動をやっていましたし、6歳年上の姉はまさに「男女雇用機会均等法」世代第一号の女性ですから、“フェミニズム”という言葉は、私が十代の頃から当たり前のように周りにありました。
1980年代後半、学生時代に私は初めて海外に出ました。インターナショナルスクールで「東西の冷戦問題をどう解決するのか」とか、「南アフリカのアパルトヘイトの現状はどうか」についてのディスカションを熱く行った記憶があります。80年代はまだ、“二つの大戦を越えて”とか“激動の20世紀”などという概念を実感できる時代でした。
私が20代で体験した強烈なコミュニケーションギャップは、文化の違いや社会の構造と深く結びついていました。だからこそ、「アサーティブネス」=「主張する権利」が、ものすごくピンときたのです。
21世紀に入り、前世紀の言葉は急激に色あせてきました。対話を積み重ねて社会の問題を解決しようという時代から、どうせ「格差社会」、何かを変えるために面倒くさい話をするよりも、現状で、言葉の伝わる範囲でハッピーに生きればいいという時代になってきている気がします。
自分の伝えたいことが伝わらないもどかしさを、社会的な差別や社会システムからひるがえって考えるという作業は、今の学生たちや20代の人たちには「実感のわかない」作業なのかもしれません。
アメリカやヨーロッパでは、他民族、多文化共生社会の中で、いやおうなくコミュニケーションの難しさに直面する日常があります。今なお続く移民問題も地域紛争も、人とひととの対話や人権問題抜きに語ることができないのに。
そんなことをどういう風に学生たちに伝えられるのだろうか。
前世紀の人間である私は、一生懸命考えています。
福祉系の学生たち
先日、ある大学の福祉学科の新入生歓迎キャンプに参加しました。新入生が大学になじみ、友達をつくり、夢をもって学生生活を始めることができるようになるための、毎年恒例のキャンプです。
このキャンプに私は昨年度から関わっていますが、毎年2年生、3年生のスチューデントカウンセラー(SC)の学生たちの活躍がすばらしいのです。私自身は、1年生の議論をファシリテートするSCのメンバーに、ファシリテーションについての考え方と方法について教える時間をとってきました。
「グループをファシリテートする」とは具体的にどういうことなのかなどについて、時間をかけて一緒に議論してきたことをしっかりと受けとめて、彼らは当日見事に力を発揮してくれました。
SCが新入生のモデルとなること、安心する場を作るためにうなずきながらよく聴くこと、批判をしないで平等に話すこと、時間の管理に気をつけること、SC自身が楽しむこと、など。
また、新入生の心を開くためには、SC自身が自己開示をして自分自身の悩みや迷いなどの本音を語ることなどについても、それぞれが真剣に受け止めて、一人ひとりがしっかりとグループの運営を行っていました。
福祉に関わる学生たちは、自分の個性をアピールするよりも、どちらかといえば聞き上手で静かな人が多いようです。その意味では、自己主張の強い(上手な)経済学部や商学部の学生に比べて、福祉系の学生は自分が主役にならないファシリテーターとしての技術が性に合っているのかもしれません。
キャンプに参加した新入生の学生たちよりも、実は新入生歓迎をオーガナイズしてグループを動かす体験をした先輩たちが、グループワークとは何か、参加を促すとは何かなどについて多くのことを体験的に学んだのではないかと思います。こうした経験をたくさん積んで、よい学生生活を送っていってほしいと心から感じた一日でした。
このキャンプに私は昨年度から関わっていますが、毎年2年生、3年生のスチューデントカウンセラー(SC)の学生たちの活躍がすばらしいのです。私自身は、1年生の議論をファシリテートするSCのメンバーに、ファシリテーションについての考え方と方法について教える時間をとってきました。
「グループをファシリテートする」とは具体的にどういうことなのかなどについて、時間をかけて一緒に議論してきたことをしっかりと受けとめて、彼らは当日見事に力を発揮してくれました。
SCが新入生のモデルとなること、安心する場を作るためにうなずきながらよく聴くこと、批判をしないで平等に話すこと、時間の管理に気をつけること、SC自身が楽しむこと、など。
また、新入生の心を開くためには、SC自身が自己開示をして自分自身の悩みや迷いなどの本音を語ることなどについても、それぞれが真剣に受け止めて、一人ひとりがしっかりとグループの運営を行っていました。
福祉に関わる学生たちは、自分の個性をアピールするよりも、どちらかといえば聞き上手で静かな人が多いようです。その意味では、自己主張の強い(上手な)経済学部や商学部の学生に比べて、福祉系の学生は自分が主役にならないファシリテーターとしての技術が性に合っているのかもしれません。
キャンプに参加した新入生の学生たちよりも、実は新入生歓迎をオーガナイズしてグループを動かす体験をした先輩たちが、グループワークとは何か、参加を促すとは何かなどについて多くのことを体験的に学んだのではないかと思います。こうした経験をたくさん積んで、よい学生生活を送っていってほしいと心から感じた一日でした。
NPOは誰のもの
NPO法人アサーティブジャパンの第2回総会が、5月6日に無事終了しました。
決算報告書や事業報告書、予算書や計画書などの資料作りにおわれて、GW中2日間も出勤してしまった私ですが、当日は全国各地から(北海道から沖縄まで)多くの方々の参加を得て、大変実りある時間となりました。
総会の中で、とても面白い議論がありました。
それは、NPOは誰のものか、というものでした。
「会費は何のためにあるのか」という質問から始まった議論は、そもそもNPOとは何かという組織の性格についての根本的な議論となりました。
NPO法人の多くは、会員の皆様からの会費で支えられているというのが現状です。ところが、私たちの団体は事業を中心とした団体であり、会費収入よりも事業収入のほうがはるかに多いために、「それではそもそも会費とは何か」という議論になったのだと思います。
生協などの組合は、組合員が出資して作る、組合員のものです。
一般の会社は、出資した株主のものです。利潤が出れば、それは株主なり組合員に還元されるというのが、組織のカタチです。
それでは、NPOは誰のものでしょうか。
会員のものでしょうか。
そうではありません。
NPOは「社会のもの」です。
社会のある問題解決を目指して、ミッションを達成するために作られたNPO法人は、社会の持ちものであると私たちは考えています。ですから、利益があがれば社会に還元するというのが、そもそもの利益の使い道となります。
ですから、NPOの会費とは、その活動やらミッションに共感した人が、法人にミッション実現を託して、「お金で賛成します」という意思の現れであるともいえるでしょう。会費を出したから会員に還元すべきなのではなく、あくまで活動がどれほどミッション実現に貢献したかということで、会員は努力をしていく必要があるのだと思います。
私たちは、一人ひとりのコミュニケーション能力の向上を目ざすことで、より対等な社会の実現を目指しています。そんな活動を支えてくださる、「伝え手」であるトレーナーの方や正会員の方々の熱い思いを、総会の時間にたっぷりと感じることができました。本当にありがとうございました。
決算報告書や事業報告書、予算書や計画書などの資料作りにおわれて、GW中2日間も出勤してしまった私ですが、当日は全国各地から(北海道から沖縄まで)多くの方々の参加を得て、大変実りある時間となりました。
総会の中で、とても面白い議論がありました。
それは、NPOは誰のものか、というものでした。
「会費は何のためにあるのか」という質問から始まった議論は、そもそもNPOとは何かという組織の性格についての根本的な議論となりました。
NPO法人の多くは、会員の皆様からの会費で支えられているというのが現状です。ところが、私たちの団体は事業を中心とした団体であり、会費収入よりも事業収入のほうがはるかに多いために、「それではそもそも会費とは何か」という議論になったのだと思います。
生協などの組合は、組合員が出資して作る、組合員のものです。
一般の会社は、出資した株主のものです。利潤が出れば、それは株主なり組合員に還元されるというのが、組織のカタチです。
それでは、NPOは誰のものでしょうか。
会員のものでしょうか。
そうではありません。
NPOは「社会のもの」です。
社会のある問題解決を目指して、ミッションを達成するために作られたNPO法人は、社会の持ちものであると私たちは考えています。ですから、利益があがれば社会に還元するというのが、そもそもの利益の使い道となります。
ですから、NPOの会費とは、その活動やらミッションに共感した人が、法人にミッション実現を託して、「お金で賛成します」という意思の現れであるともいえるでしょう。会費を出したから会員に還元すべきなのではなく、あくまで活動がどれほどミッション実現に貢献したかということで、会員は努力をしていく必要があるのだと思います。
私たちは、一人ひとりのコミュニケーション能力の向上を目ざすことで、より対等な社会の実現を目指しています。そんな活動を支えてくださる、「伝え手」であるトレーナーの方や正会員の方々の熱い思いを、総会の時間にたっぷりと感じることができました。本当にありがとうございました。