6月、7月はとても忙しい毎日でした。事務所に顔を出すのは週1回、あとは出張で毎日のように出歩いていましたが、今週でちょっと一息つけそうです。週末の仕事は続きますが、来週からはしばらく事務所に腰をすえて、新しい企画を考えることができそうです。
ここのところの私の日常に加わった新しいことといえば、子犬を飼い始めたことでしょう。トイプードルの子犬で、先月家にやってきたときはまだ2ヶ月、赤ちゃんでした。それから1月のうちに体重が2倍になり、今はすっかりやんちゃな子どもになりました。
週末の出張から疲れて帰ってきたら、とにかく大喜びで迎えてくれます。その喜びようといったら、いやはや、こんな風に大喜びされることに最初は戸惑いました。飛びついて顔をなめて・・・。無邪気に喜ぶ子犬をなでていると、出張の疲れも吹き飛びます。
子犬の暮らしで必要なことは、訓練です。オスワリ、マテ、などの基本的な訓練は、毎日少しずつくり返し、覚えていきます。言葉ではわかりませんから、本当に真剣な顔をして、しっかりと伝えなければなりません。
なるほどなあと思うのは、新しい行動を覚えるために必要なことは、くり返し訓練すること。とにかく毎日10分でもいいから、しっかりと訓練すること。そして覚えるまでに時間がかかることを認識して、忍耐強く続けること。
子犬の訓練は、そのまま人間の訓練でもあります。
要するに、子犬に向き合う私自身が鍛えられるのです。
行動を変えるには時間がかかる。一度学んだことは、何度もくり返し体験しながら、完全に覚えるまで続ける。
それって、アサーティブトレーニングと同じじゃないですか。
講座で覚えたことはその場の変化になったとしても、日常が変化するまでには毎日、少しずつ、忍耐強く、時間をかけて行っていくしかありません。自分が少しずつ変わることで、周囲も少しずつ変わっていく。
そんなシンプルな事実を、子犬との日常の中から感じている毎日です。
子犬との日常から学ぶこと
身体を使った自己表現
去る7月20日(木)の午後、PETAによる自己表現ワークショップ「からだで感じる人権とコミュニケーション」が、国立にあるアサーティブジャパン事務局で開催されました。狭い事務局の会議スペースいっぱいを使って、20名近くの参加者が全身を使って楽しんだ午後でした。
私自身は、4年前にフィリピン滞在中、アサーティブジャパンのスタディツアーで、PETAのワークショップを企画し、言葉ではなく身体を使った問題解決手法を体験して、目からウロコが落ちたことをよく覚えています。
私たちは再度、2年前の春にPETAを招へいし、2泊3日で、セクシュアリティのワークショップを行いました。そこでも、女性であること、身体のこと、ジェンダーに関わる問題の解決など、深い気づきをたくさんもらいました。
私たちの仕事は、「言葉で」自己表現する技術を教えるものですから、どちらかといえば身体を使った自己表現は不得意です。その意味で、問題解決の話し合いのプロセスそのものを、「演劇」という手法を使って深めるPETAと、とりわけ、その場を作るファシリテーターのスキルのすばらしさに、ただただ感服していました。
時間が4時間という短いものであったため、ちょっぴり忙しい時間の流れとなりました。それでも最後に、人権の尊重される社会を作るために自分ができる「小さな一歩」をシェアしながら、参加者みなが一体感を感じられたことは、見ていても胸が一杯になる体験でした。
最後に皆さんの「小さな一歩」の言葉のいくつかをご紹介します。
「世の中にあるたくさんの問題に対して無関心にならず、まずは知ることから始める」
「お金にならない仕事(家事や人を助けることなど)に敬意をもって取り組む」
「まず最初に自分を大切にする。そして人を思いやる気持ちを持つ」
「第一に顔が見える範囲の人との信頼関係を築く。それからマイノリティサポートをするヒトとして生まれたものの社会的役割を果たす」
「自分から声をかける」
PETAの講座はまだまだ続いています。チャンスがあるかたは、ぜひ一度体験してみてください。
私自身は、4年前にフィリピン滞在中、アサーティブジャパンのスタディツアーで、PETAのワークショップを企画し、言葉ではなく身体を使った問題解決手法を体験して、目からウロコが落ちたことをよく覚えています。
私たちは再度、2年前の春にPETAを招へいし、2泊3日で、セクシュアリティのワークショップを行いました。そこでも、女性であること、身体のこと、ジェンダーに関わる問題の解決など、深い気づきをたくさんもらいました。
私たちの仕事は、「言葉で」自己表現する技術を教えるものですから、どちらかといえば身体を使った自己表現は不得意です。その意味で、問題解決の話し合いのプロセスそのものを、「演劇」という手法を使って深めるPETAと、とりわけ、その場を作るファシリテーターのスキルのすばらしさに、ただただ感服していました。
時間が4時間という短いものであったため、ちょっぴり忙しい時間の流れとなりました。それでも最後に、人権の尊重される社会を作るために自分ができる「小さな一歩」をシェアしながら、参加者みなが一体感を感じられたことは、見ていても胸が一杯になる体験でした。
最後に皆さんの「小さな一歩」の言葉のいくつかをご紹介します。
「世の中にあるたくさんの問題に対して無関心にならず、まずは知ることから始める」
「お金にならない仕事(家事や人を助けることなど)に敬意をもって取り組む」
「まず最初に自分を大切にする。そして人を思いやる気持ちを持つ」
「第一に顔が見える範囲の人との信頼関係を築く。それからマイノリティサポートをするヒトとして生まれたものの社会的役割を果たす」
「自分から声をかける」
PETAの講座はまだまだ続いています。チャンスがあるかたは、ぜひ一度体験してみてください。
後継者の方々から学ぶ
先日、後継者教育に携わるNさんの会社で、アサーティブトレーニングの1日講座を担当させていただきました。「後継者」とは、いわゆる“親父さん”の代に始まった会社の、二代目社長さんたちのことです。
Nさんを聞きながら「なるほど」と思うことがたくさんありました。会社を興した一代目の創業者はパワーもあり、まわりへの影響力も説得力もある。夢を語ってガンガン社員を引っ張っていけばいい。会社を支える人たちは、どちらかと言えば創業者の人柄にほれたり、その夢にほだされたりして、これまで一緒にやってきたという歴史がある。
ところが、二代目になるとそうはいかない。親父さんとの違いばかりが目について比較される。自分の色をどのように出していったらいいのか、どうすれば社内に新しい風を起こしていけるのか。
後継者の方々の課題は、先代との関係、先代の代からいる専務との関係、お父さんの年代にあたる部下の指導など、本当に「力関係」にかかわるコミュニケーションの課題が数多くあるようです。
参加者の皆さんは本当に勉強熱心で、自分の会社をよくしていこうという意欲に燃え、社員の方々の今後のことも、本当によーく考えていらっしゃる。
ところがそうした「思い」の部分が大きすぎて、言葉がどうも空回りしてしまったり、具体的な提案や指示よりも、夢の話や“会社をよくしていきたい”という大きな話になってしまったりで、どうも自分の本当の思いが伝わらない。
お話を聞きながら、後継者の方々の共通の課題がよく見えてきました。
参加者の方々の思いに触れて、私自身のことをたくさん振り返りました。
ある意味、「創業者」である私は、大変ではあるけれど気が楽ではありました。夢を語りアサーティブネスを伝えているうちに、いつの間にやら多くの方々に支えていただく団体となりました。
私が元気なうちはいいけれど、私が引退した後も、アサーティブネスの伝え手の方々がミッションを忘れず継続していける組織となること。
後継者の課題は私自身の課題でもあります。
Nさんを聞きながら「なるほど」と思うことがたくさんありました。会社を興した一代目の創業者はパワーもあり、まわりへの影響力も説得力もある。夢を語ってガンガン社員を引っ張っていけばいい。会社を支える人たちは、どちらかと言えば創業者の人柄にほれたり、その夢にほだされたりして、これまで一緒にやってきたという歴史がある。
ところが、二代目になるとそうはいかない。親父さんとの違いばかりが目について比較される。自分の色をどのように出していったらいいのか、どうすれば社内に新しい風を起こしていけるのか。
後継者の方々の課題は、先代との関係、先代の代からいる専務との関係、お父さんの年代にあたる部下の指導など、本当に「力関係」にかかわるコミュニケーションの課題が数多くあるようです。
参加者の皆さんは本当に勉強熱心で、自分の会社をよくしていこうという意欲に燃え、社員の方々の今後のことも、本当によーく考えていらっしゃる。
ところがそうした「思い」の部分が大きすぎて、言葉がどうも空回りしてしまったり、具体的な提案や指示よりも、夢の話や“会社をよくしていきたい”という大きな話になってしまったりで、どうも自分の本当の思いが伝わらない。
お話を聞きながら、後継者の方々の共通の課題がよく見えてきました。
参加者の方々の思いに触れて、私自身のことをたくさん振り返りました。
ある意味、「創業者」である私は、大変ではあるけれど気が楽ではありました。夢を語りアサーティブネスを伝えているうちに、いつの間にやら多くの方々に支えていただく団体となりました。
私が元気なうちはいいけれど、私が引退した後も、アサーティブネスの伝え手の方々がミッションを忘れず継続していける組織となること。
後継者の課題は私自身の課題でもあります。
対決の向こう岸には希望がある
先週の週末、札幌で応用講座を担当してきました。私が一般の講座を担当することはあまりないので、久しぶりに一般の参加者の方々と2日間を過ごすことができてとても新鮮な感動をいただきました。
応用講座のテーマは、批判や怒りの対処、そして相手とまっすぐ向き合って“対決する”などの難しいテーマが並びます。普段あまり見ることのない感情を見つめ、自分の内面に向き合い、これまでの様々な人間関係を振り返って、今後どんな関係を作りたいのかを考える時間でもあります。
対決の向こう岸には希望がある。
今回はそれをつくづく感じた2日間でした。
これまでなかなか伝えることのできなかった気持ちを伝える時間ですから、つい怒りや悲しみを相手にぶつけてしまいそうになります。家族や友人、職場の上司など、長い関係であるからこそ、これまでの「思い」がたくさん残っています。
それを無視したり見ない振りをしたり、あるいはこれまでの怒りを全部まとめてぶつけたりすることなく、言えなかった自分自身の不安や自信のなさも認めたうえで、相手に静かに向き合う時間。
それは決して、怒りをぶつけ合うような「対決」のシーンではなく、深い自己信頼に支えられて、それでも相手と対話し続け、関係に希望を持ち続けていこうという“決意”の表れのようにも見えました。
すがすがしく、りんとした姿勢。
相手をおとしめたり、見下したり、あるいは自分を卑下することなく、「私はこうなのです」と、対等に向き合う姿勢。
そんなみなさんの姿を見ながら、私は心から感動していました。
相手にまっすぐ向き合うということは、本当に自分自身に真摯に、誠実に向き合うことであり、その結果、希望をもって現実に向き合う姿勢そのものなのだと、2日間を通して痛感しました。
札幌は湿度が低く、抜けるような青空と緑がまぶしい週末でした。日曜日の夕方空港へ向かうときには、北海道の青空のようにすがすがしい気持ちとなりました。
参加者の皆さん、本当にありがとうございました。
応用講座のテーマは、批判や怒りの対処、そして相手とまっすぐ向き合って“対決する”などの難しいテーマが並びます。普段あまり見ることのない感情を見つめ、自分の内面に向き合い、これまでの様々な人間関係を振り返って、今後どんな関係を作りたいのかを考える時間でもあります。
対決の向こう岸には希望がある。
今回はそれをつくづく感じた2日間でした。
これまでなかなか伝えることのできなかった気持ちを伝える時間ですから、つい怒りや悲しみを相手にぶつけてしまいそうになります。家族や友人、職場の上司など、長い関係であるからこそ、これまでの「思い」がたくさん残っています。
それを無視したり見ない振りをしたり、あるいはこれまでの怒りを全部まとめてぶつけたりすることなく、言えなかった自分自身の不安や自信のなさも認めたうえで、相手に静かに向き合う時間。
それは決して、怒りをぶつけ合うような「対決」のシーンではなく、深い自己信頼に支えられて、それでも相手と対話し続け、関係に希望を持ち続けていこうという“決意”の表れのようにも見えました。
すがすがしく、りんとした姿勢。
相手をおとしめたり、見下したり、あるいは自分を卑下することなく、「私はこうなのです」と、対等に向き合う姿勢。
そんなみなさんの姿を見ながら、私は心から感動していました。
相手にまっすぐ向き合うということは、本当に自分自身に真摯に、誠実に向き合うことであり、その結果、希望をもって現実に向き合う姿勢そのものなのだと、2日間を通して痛感しました。
札幌は湿度が低く、抜けるような青空と緑がまぶしい週末でした。日曜日の夕方空港へ向かうときには、北海道の青空のようにすがすがしい気持ちとなりました。
参加者の皆さん、本当にありがとうございました。
Noと言える若者たち
先日、大学の教員をしているHさんが面白い話をしてくれました。
「今の学生たちは、簡単に『No』って言えるんですよ」
「へえぇ。“できません”って言うのは、結構難しいでしょ」
「いや、“できません”じゃないんです。“無理”ですよ、“無理”」
「なるほど、“無理”ねえ・・・」
言い方にもあるのでしょうか、確かに今の10代の方々に「○○お願いできるかな」と尋ねると、一言ばっさり、「無理」。
「できません」でも、「難しいです」でもなく、「無理」というのが学生たちの返答だというのです。
大人の私が昔を振り返ってみても、「無理」なんて言葉は相手を遮断するようでとても伝うことができないし、そもそも自分のボキャブラリーにはなかったような気がします。
「ええ、そんな・・・」
とか、
「ちょっと・・・できないかも」
なんてかわいらしい“No”ではなく、彼女たちにとっては、問答無用、無理、なのです。
「でもね、社会に出たら通用しないでしょう、そんな言葉」
「そうですけど、それでも若い人たちは自分なりに、“No”という言葉を生み出しているのでしょうね」
Hさんは笑いながら答えてくれました。
「おつき合いしてもらえますか」
「ちょっと、無理、かも」
なんていう答えは、ある意味はっきり「No」という際のさわやかな言い回しなのかもしれません。ビジネス社会ではとても通用しない「無理」という言葉ではありますが、良し悪しとは別として、彼女たちなりのきっぱりとした「No」は、学生時代「No」の言えなかった私にとっては、はるほどと感心させられることもありました。
とはいえ、私自身はとても使える言葉ではありませんが。
「今の学生たちは、簡単に『No』って言えるんですよ」
「へえぇ。“できません”って言うのは、結構難しいでしょ」
「いや、“できません”じゃないんです。“無理”ですよ、“無理”」
「なるほど、“無理”ねえ・・・」
言い方にもあるのでしょうか、確かに今の10代の方々に「○○お願いできるかな」と尋ねると、一言ばっさり、「無理」。
「できません」でも、「難しいです」でもなく、「無理」というのが学生たちの返答だというのです。
大人の私が昔を振り返ってみても、「無理」なんて言葉は相手を遮断するようでとても伝うことができないし、そもそも自分のボキャブラリーにはなかったような気がします。
「ええ、そんな・・・」
とか、
「ちょっと・・・できないかも」
なんてかわいらしい“No”ではなく、彼女たちにとっては、問答無用、無理、なのです。
「でもね、社会に出たら通用しないでしょう、そんな言葉」
「そうですけど、それでも若い人たちは自分なりに、“No”という言葉を生み出しているのでしょうね」
Hさんは笑いながら答えてくれました。
「おつき合いしてもらえますか」
「ちょっと、無理、かも」
なんていう答えは、ある意味はっきり「No」という際のさわやかな言い回しなのかもしれません。ビジネス社会ではとても通用しない「無理」という言葉ではありますが、良し悪しとは別として、彼女たちなりのきっぱりとした「No」は、学生時代「No」の言えなかった私にとっては、はるほどと感心させられることもありました。
とはいえ、私自身はとても使える言葉ではありませんが。
感情的にならずに感情を伝える
今、私の周りにはガンで闘病をしている人がたくさんいて、私自身、感情的にならないで本当の気持ちを伝えることがどんなに難しいかを毎日のように痛感しています。
ガンの手術の後に待っているのは、長い治療と再発の恐怖。私は本人ではないので、ついつい「気をしっかり持って」なんて、いとも簡単に言ってしまいそうになります。
一番つらいのは本人なのに、やいのやいのと言っているのは周りの家族。あの治療がいい、こうしたら、これからどの治療にするの、こっちの病院にしたら、などなど、「おせっかい」の度を越えて本人をコントロールし始めてしまいます。
「結局周りが言っているのは、“本人には自分の治療について考える能力がない”ということなのよね」
ため息をついて、ある友人が言いました。
その友人も、お母さんのガンの治療をめぐって家族中が大騒ぎになり、現在は絶縁状態に。お母さんが「家族の怒りを静めるならば」と、気の進まない治療を受けようとすることに、その友人は猛烈に腹をたてているのです。
「本人の希望はどうなのよ。本人の生活の質を決めるのは、本人でしょう」と。
ああしたらいい、こうしたらいい、と、「善意」という名の押しつけを行ってしまうことの、なんと多いこと。心配している家族は、“本人のためを思って”進言しているのでしょうが、本人の意思や希望を無視して、結局は家族の不安を取り除くために本人の望まない治療をさせようとすることも実は数多くあるような気がしています。
別の友人も、遠く離れた家族や友人がひっきりなしに電話やメールを送ってきて、「帰って来たら」「こっちの治療のほうがいいわよ」「ドクターの言うとおりにしなさい」などと、うんざりするほど口を出してくることに、ほとほと嫌気が差しています。
ものすごく心配しているの。だからちょっとしたことに腹をたててしまうの。
そばにいる私も、本当はとても不安なの。
あなたがつらいのを見ていると、私もつらくなってしまう。
それこそがきっと本当の気持ちでしょう。それを誠実に伝えて、本人の気持ちに耳を傾けて、そして不安を共に抱えながら日々を暮らしていくこと。それが家族ができる精一杯のことなのかもしれません。
私もそう自分に言い聞かせています。
ガンの手術の後に待っているのは、長い治療と再発の恐怖。私は本人ではないので、ついつい「気をしっかり持って」なんて、いとも簡単に言ってしまいそうになります。
一番つらいのは本人なのに、やいのやいのと言っているのは周りの家族。あの治療がいい、こうしたら、これからどの治療にするの、こっちの病院にしたら、などなど、「おせっかい」の度を越えて本人をコントロールし始めてしまいます。
「結局周りが言っているのは、“本人には自分の治療について考える能力がない”ということなのよね」
ため息をついて、ある友人が言いました。
その友人も、お母さんのガンの治療をめぐって家族中が大騒ぎになり、現在は絶縁状態に。お母さんが「家族の怒りを静めるならば」と、気の進まない治療を受けようとすることに、その友人は猛烈に腹をたてているのです。
「本人の希望はどうなのよ。本人の生活の質を決めるのは、本人でしょう」と。
ああしたらいい、こうしたらいい、と、「善意」という名の押しつけを行ってしまうことの、なんと多いこと。心配している家族は、“本人のためを思って”進言しているのでしょうが、本人の意思や希望を無視して、結局は家族の不安を取り除くために本人の望まない治療をさせようとすることも実は数多くあるような気がしています。
別の友人も、遠く離れた家族や友人がひっきりなしに電話やメールを送ってきて、「帰って来たら」「こっちの治療のほうがいいわよ」「ドクターの言うとおりにしなさい」などと、うんざりするほど口を出してくることに、ほとほと嫌気が差しています。
ものすごく心配しているの。だからちょっとしたことに腹をたててしまうの。
そばにいる私も、本当はとても不安なの。
あなたがつらいのを見ていると、私もつらくなってしまう。
それこそがきっと本当の気持ちでしょう。それを誠実に伝えて、本人の気持ちに耳を傾けて、そして不安を共に抱えながら日々を暮らしていくこと。それが家族ができる精一杯のことなのかもしれません。
私もそう自分に言い聞かせています。