AJ代表日記

AJ代表 森田汐生のつぶやきを記します

養成講座が修了しました

8月の最終週末で、第6期アサーティブネス・トレーナー養成講座が無事修了しました。今回は全国各地から多様な方々にご参加いただき、トレーナーの養成にかかわる私たち事務局トレーナーにとっても、大きな学びのある研修となりました。

日本でも「アサーティブネス」という言葉が市民権を得てきつつありますが、言葉の知名度が上がるにつれて、アサーティブネスの根源的な価値観や思想よりも、手軽な伝え方のスキルばかりが目だって取り上げられるようになってきています。

トレーナーの養成とは、そうした時代の風潮を見すえつつ、アサーティブネスの思想の根底に流れている、人とひととの対等性、誠実さ、率直さや人としての統合性など、現在の社会にある既存の価値観(競争や勝ち負け)ではない、新しい「価値」の広め手を増やしていくことであると、私自身は考えています。

アサーティブネスという考え方や方法を、人間関係をコントロールしたり自分が相手よりも優位に立つために使うのではなく、自分自身がよりよく生きるために使っていってほしい。どんな立場であれ、人間として対等な関係を作ることのできる力をつけるために活用してほしい。希望を土台として、誠実に、対等に、対話をすることのできる人が少しでも増えてほしいというのが、私の望みでした。

トレーナー養成講座9回、10ヶ月が終わって、そうした価値観を伝えることのできる人を増やすことができたのでしょうか。それについては、今期の修了生の今後の活動を見ていくことしかできません。しかしながら、参加者全員が、まず自分自身がアサーティブに生きること、誠実に、真摯に、そして対等な関係を目指して生きていくための志を新たにしてくださっただろうことは疑うこともありません。

養成講座の修了生は、これから12月の認定研修までに、各地で開催されるアサーティブトレーニングにインターン生として入り、現場の経験を深めていくプロセスに入ります。養成講座で学んだ理論が、現場でどのように生かせるのかということと同時に、日常生活の中でより「アサーティブに生きる」ことが求められていきます。

グループのファシリテーションのスキルよりも、アサーティブネスの理論の紹介よりも、もっと厳しく自分自身と向き合うことになっていくのでしょう。

本当の意味での対等な関係を作ることを決断し、その結果の葛藤を引き受けながら、日々をアサーティブに生きていってほしい。

養成講座修了生の背中を見ながら、心の中でそんなエールを送りました。

講師は体力が一番

昨日のエントリーで、学生時代本の虫であったと書きましたが、アサーティブジャパンの事務局メンバーが文科系ぞろいであるかというと、全くそうではありません。私ともう一人が文科系(音楽系)であった以外は、その他6名は全員体育会系、それもかなりの運動好きが集まっています。

剣道初段が2人、空手、バレーボール、ソフトボール、水泳、バスケット、テニスなど、中学、高校、大学時代の活動を聞くと驚くほど“元気のいい”人たちばかりです。

“トレーナー”って、やっぱり体育会系のお仕事なのでしょうか。

確かに体力を使う仕事ではあります。
体力と同時に気力も大いに使います。

2日間の講座が終わると、頭も体も疲労困憊してしまいます。出張講座が続く時期には、始まる前に“気合”を入れなければなりません。気合を入れるために、1時間以上前に会場に到着し、コーヒーを飲みながら徐々に気持ちをそちらに持っていきます。頭をクリアにするために、一人の静かな時間をとって“気合”を入れるのです。

出張が続くと旅ガラスとなりますから、重いボストンバッグを引きながら電車と飛行機を乗り継ぎます。以前は新幹線でもパソコンでメールをチェックしていましたが、ここ1年はさすがに疲れて、今では移動中はじっくり本を読む時間にしました。

やっぱり体力勝負ですね。

考えてみれば、講師というのはかなりリスクの高い予約の仕事です。数ヶ月前から特定の日程を必ず空けておかなければなりません。風邪を引くことは許されないし、当日どんな不慮の事故に巻き込まれようと、現地に到着しなければならないのです。

これまで遅刻をしたことが一度だけありました。関西空港行きの飛行機が搭乗後キャンセルとなり、次の飛行機に乗り換えて、講演開始時間に15分遅れました。これまで何百という講座を担当したにもかかわらず、風邪も引かないでがんばってこられたのは、やっぱり体力に尽きるのでしょうね。

一度、事務局メンバーでバレーボールの試合でもやってみたいものです。
もちろん私は応援席ですが。

夏休みに何を読もうか

「最近の学生は本当に本を読まなくなった」。久しぶりに会った大学の講師をしている友人がぼやいています。「流行の本や、すぐ読めるハウツーとかは読んでいるみたいだけれど、何もかも、調べものはインターネットになっているし」。

大学のレポートは、ほとんどがインターネットの検索から断片的なキーワードをつなぎ合わせて作成されたものばかりだというのです。

大人になった私自身も、図書館に通って本を読み情報を集めるという作業とはすっかりご縁がなくなり、調べモノがあればすぐにインターネットで検索しています。言葉の意味や若干の背景は確かに理解できますが、奥底に横たわる思想や哲学の全体に触れることは、ほとんどなくなってしまいました。

私自身は、子どもの頃から本が大好きで、中学や高校時代には海外文学を片っ端から読み、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』も高校1年の夏休みに2回も読破しました。友人たちと、何を読んだかを競うようにして、本の山に埋もれていた記憶があります。

学生だった18歳や19歳の頃、大学は「学問」をする場所でした。歴史を勉強していたこともあり、わけのわからない難しい歴史関連の書物を一生懸命読んで、小難しい論文をいくつも書いていた記憶があります。様々な書籍の中から美しい日本語を書き出す作業も、本とのつき合い方の楽しみの一つでした。

だから、本を読まないという学生たちに出会うと、会話をするのに一苦労します。流行の音楽、流行のテレビ、ゲームなど、学生たちの世界に足を踏み入れるには、私のような前世紀の人間はかなりジャンプをしなければ、とてもとてもついていけません。

しかし、流行のモノは時代と共に変わっていくもの。
「美しい」ものは、今も昔も変わらずそこにあるようです。

先日、20年ぶりに飛騨高山に行き、白川郷の合掌造りを見てきました。ずっと変わらない自然の美しさに触れて、命の洗濯をしてきました。

文章や風景の中に「美しさ」を見つけられる心のゆとりと謙虚さを、忘れないでいたいと思います。残り少なくなった夏休みですが、心を揺さぶられるような文章に出会うため、今一度、本を手に取ってみようと思います。

自分の要求をはっきり口に出すこと

アサーティブネスの『12の権利』の最初の権利は、このように表現されています。

I have the right to state my own needs and set my own priorities as a person independent of any roles that I may assume in my life.

直訳するとこんな風になります。
「私には、どんな役割からも自由になったひとりの人間として、自分のニーズをはっきり口に出し、自分のための優先順位を決める権利を持っている」

自分のニーズをはっきり口に出すということ。当たり前のような権利ですが、若い世代には、「自分の要求がよくわからない」と言う人が増えてきているような気がします。

自分は現状をこのように見ている、それに対してこのように感じている、だから、私はこのように望んでいる、ということが、よくわからないというのです。こんなことを言うとあの人はどう思うだろう、こんなことを言ったら周りはどう考えるのだろうか。それを心配していると、自分が何を望んでいるのかすらわからなくなるというのです。

さて、そんなことを考えながら大阪のあるホテルに宿泊していました先週末。ちょうど甲子園が始まったので、ホテルは高校野球、少年野球の少年たちで一杯でした。

朝食のときのことです。私のナナメ向こうに座っていた男の子(多分12歳くらい)が、オレンジジュースをひざの上にこぼしてしまいました。

あれあれ、と思って、どうするのかなあと見ていましたら、あっという間に四方八方から手が伸びてきて、3人くらいのお母さんが、その子の洋服をふき始めたのです。男の子が何も言わないうちに、洋服はすっかりきれいになりました。

自分が困った状況にあるとき、「このように困っているから助けてほしい」という当たり前の要求を主張する前に、助けがやってくる、問題解決されてしまうということが、少子化の時代になってますます増えつつあるような気がします。男の子が困るのではなく、オレンジジュースをつけた野球の服を着せたくないと、親が困っているのです。

そんな大人の都合の論理の果てに、子どもたちがきちんと自分の「権利」を主張し、自分の行動に対して責任を取るという態度を身につけていくとは思えません。

自分の要求がわからない、自分が何を望んでいるのかわからないという若い世代を見るたびに、大人である私たち自身の責任を痛感してしまいます。要求をどのように伝えるかという前に、自分は何を望んでいるのかを認識し、言語化するという力を身につけることに取り組んでいく必要があるのかもしれません。