AJ代表日記

AJ代表 森田汐生のつぶやきを記します

言葉でなく伝わる気持ち

先日から、感情を言語化するというプロセスについて書いていますが、アサーティブネスでは、必ずしも「言語化する」ことが全てではありません。

気持ちというのは、言葉だけでなく、身体全体から伝わってくるものでもあるからです。

実は今週から、実家の岡山に帰っています。認知症の父が急きょ入院することになり、介護疲れの母のサポートに入ることになりました。

父はもう長い間耳が聞こえないため、沈黙の中に生きています。「言語を介して理解する」ということは不可能に近くなっていますが、彼の中で「感情」が今も豊かに存在しているのがよくわかります。

不機嫌だったり、困惑していたり、嬉しかったり、穏やかだったり。

不思議なことに、父は周りの人間の感情にとても敏感で、どんなに顔がニコニコしている看護師さんでも、態度がピリピリしていると、それに反応します。本当にゆったりして落ち着いて話しかけてくださると、父も穏やかな顔になり、体を任せてくれます。

私の顔を見た時の父は、誰かなあ・・・といった表情から、ふっと、自分の娘であるということがわかったのでしょう。ふうっと顔を緩めて、ゆっくりとうなずいてくれました。

毎日のように、夕暮れの病院内を、ゆっくりと車いすを押しながら散歩をしました。

言葉は、もう、ありません。
でも、父の気持ちはなんだかわかるのです。
昨日はとっても不機嫌でしたが、今日の彼はとても穏やかでした。

これまでこんなに父の顔を見つめたことがあっただろうかと思うくらい、食べるときも歩くときも父の顔を見つめながら、ちょっとした表情や、目の動きや、口の動きから、少しでも父の気持ちを理解したいと思っていました。

そんなコミュニケーションもあるのですよね。

言葉も大切ですが、非言語の部分も本当に大切です。
言葉にならない思いにも、耳を傾ける必要があるのでしょう。

人はどのように生き、そして死ぬのでしょうか。
そんなことを、秋の美しい夕焼けの空を見ながら、考え続けた日々でした。

関係性こそをアサーティブに

アサーティブネスとは自己表現の一つではありますが、必ずしも「相手に気持ちを伝えること」がアサーティブではない場合があります。

アサーティブな感情表現には、次の二つのプロセスがあります。
A:自分の心の中にある感情を、心の中で言語化するプロセス。
B:言語化された感情を、実際に相手に伝えるプロセス。

AとBの間にはギャップがあります。にもかかわらず、アサーティブに“気持ちを伝えていい”ということになると、Aを吟味しないまま、すぐさまBへ飛びついてしまうことが、時々あるようなのです。

腹が立ったから「むかつく」。頼まれたことができなければ「無理」。相手の言葉に傷ついたら「傷つけられたような気がする」。批判されたら「尊重されていない気がする」。
これでは、相手は傷つきますし、何よりも伝えた結果相手の口を封じてしまい、その後の対等な対話を壊してしまいます。

Aのプロセスでは、自分の中の気持ちがもやもやしていたり、なんだか悲しかったり腹立たしかったり、色々です。感情とは頭で考えるような論理的なものではなく、まったく非合理的で非論理的なものだからです。

そうした自分の中にある感情をアサーティブに見つめて、自分自身に誠実に、本当に自分は何を感じているのかを言語化するプロセス(A)が必要なのです。

その後、実際に相手に伝えるかどうか、どのように伝えるかについては、次のプロセス(B)になります。伝えるという選択肢もありますし、伝えないという選択肢もあります。もし伝えようと決断したら、今度はアサーティブな表現を選ばなければなりません。それは、心の中で言語化した感情を対等に率直に、相手を責めるのでも自分を卑下するでもなく、「相手が受け取ることのできる形で」伝えることになるのです。

腹が立ったとしても、職場で「腹が立ちました」と言ってはまずい場合があります。自分が悲しかったとしても、「悲しいのです」とは言えない場合もあります。
相手が誰かによっては、「とても遺憾に思います」、あるいは「へこみますねえ」などと表現を工夫することが必要なのです。

自分ばかりがアサーティブになっても、相手との対等な関係は築けない場合があります。だからこそ、お互いの「関係性」を、誠実で率直で対等で、そして自己責任を認識したアサーティブなものにしていきましょう。

気持ちと要求をミックスしない

アサーティブトレーニングでは、“気持ち”を“言葉で”表す練習をくり返します。しかしながら、この“気持ち”というものが、実は多くの誤解を受けているのだということを、最近つくづく感じています。

例えば、「あなたともっと一緒にいたい」
というのは、気持ちでしょうか。

これを伝えられた側は、「気持ちがよく伝わってきた」と思います。しかし、実はこれは“気持ち”ではありません。「一緒にいたい」というのは、英語で言えば、“I WANT”、つまり“要求”にあたります。

気持ちは何かと言うと、「一緒にいられなくて寂しいから」というものです。
英語で言えば、“I FEEL” の部分です。だからこそ、「一緒にいたい(要求)」になるわけですね。

日本語は“気持ち”と“要求”がごっちゃになりやすく、初級英会話を勉強する人が、上記のことを「I feel I want to be with you.」などと訳してしまうわけです。

日本語では直接的な言葉を避けて、「○○な気がする」と表現する傾向があり、その結果、かえって、本当の自分の気持ち(“寂しいから”)を認識することが難しくなるようです。

それでは、「傷つけられたような気がする」
という表現は、“気持ち”の表現でしょうか。

これも違います。
「傷つけられたような気がする」「侵入されたような気がする」「バカにされたような気がする」というのは、相手の行為を自分の気持ちに置き換えて伝え、暗に相手を攻撃している言葉です。

「傷つけられたような気がする」というのは、「あなたは私を傷つけた」ですし、「バカにされたような気がする」というのは、「あなたは私をバカにした」と、実のところは伝えているのです。

それを“気持ち”と誤解してアサーティブに伝えようとすると、お互いに大変なダメージを受けてしまいますし、何よりも、この伝え方は決してアサーティブではありません。

アサーティブネスでは、相手も自分も決して攻撃しないというスタンスに立ちます。
みなさん、どうぞ気をつけてください。

犬のコミュニティ

周りで何人も風邪で寝込んでいるのを横目で見ていたら、とうとう自分も寝込んでしまいました。今朝やっと体を起こすことができました。どうぞ皆様、体にはくれぐれも注意してくださいね。

さて、最近になって新しいのは、犬のコミュニティの存在を知ったということです。

6月から子犬を飼い始め、8月頃から毎朝毎晩散歩に出かけるようになりました。

以前、犬を飼おうと思っているんだという話をしたときに、犬好きの同僚から、
「犬を飼ったらものすごく地域の知り合いが増えるよ」
と言われていて、なあるほど、程度に理解していましたが、散歩に出るようになってつくづくその言葉の意味を体感するようになりました。

散歩中に犬を連れた人と出会うと必ず、「おはようございます」「こんにちは」などと声をかけあいます。
知らない人でも、笑顔で「こんにちは」。そして簡単な犬同士のご挨拶も。

一番驚いたのは、同居人でした。
私の同居人は外国人なのですが、「日本に来てから一度も日本人から声をかけられたことがないのに、犬といると知らない人でもどんどん声をかけてきてくれる」
戸惑いながらもちょっと嬉しそうに言います。

私の実家のある地域などでは今も近所で挨拶をしていますが、東京に来てからはせいぜい同じマンションの住人と挨拶する程度でした。「東京の人たちは冷たい」と言って、郷里に帰っていった人たちも、これまで何人か見ています。

でも、まんざら捨てたもんじゃない、のかもしれません。
犬のコミュニティがあるように、地域にはコミュニティが存在していて、私はただ、忙しさにかこつけて気づかなかっただけなのかもしれません。

もう一つ、嬉しい発見がありました。現在住んでいる場所は、私が大学生のときに6年間暮らした場所のすぐ近くなのですが、あれから20年近くたって戻ってみると、銭湯で見かけていたクリーニング屋のお姉さん(今はおばちゃんか)や、買い物をしていた魚屋のおじさんが、今でもコツコツ仕事をしていることでした。

歩くスピードになると、これまで気づかなかった様々なことが見えてくるのですね。
これから、犬を連れていてもいなくても、地域の人たちに挨拶をしていこうと思います。