AJ代表日記

AJ代表 森田汐生のつぶやきを記します

自分は自分、でいいのだろうか

30代の女性ソーシャルワーカーさんが、最近の悩みについて話をしてくれました。

彼女は30代半ばの“中堅どころ”ですが、一回り以上年下の20代のワーカーさんたちの態度に、少々心を悩ませていました。

「若手のワーカーさんたちは、クライエントさんの話を聞いていたり、訪問したりしていても、定時になったら『時間ですので失礼します』と言って、さっと帰ってしまう。以前の私たちは、仕事上の境界線を引くことが課題だったのに、最近は違うんですね」

自分は自分。時間が来たら相手がどうであれ、自分の権利を行使して定時で帰る。

その意味では自分の自己決定権を行使し、自分の要求を行動に移した、“アサーティブな態度”なのかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。

「自分は自分、他人は他人」という空気は、一見個人の権利を尊重したようなものであるかのような印象を受けます。しかしながら、その立場で自分の要求をストレートに伝えたらアサーティブであるかというと、私は全くそうとは思いません。

「自分は自分、他人は他人」というのは、自分が傷つかない、他人を傷つけない、スマートなコミュニケーションなのかもしれません。

しかし、アサーティブな話し合いとはスマートなコミュニケーションどころか、相手との価値観の違いに葛藤し、理解しあうことの難しさを痛感しながら、それでも話し始めようという、実は大変“ごつごつした”、“飲み込むのが難しい”コミュニケーションではないかと、私は思っています。

葛藤なしに、傷つくことのないコミュニケーションは、アサーティブな関係を生み出すどころか、「嫌ならつき合わなきゃいいじゃない」的な、機械的な関係しか生み出さないのではないでしょうか。

嫌でもつき合わなければならないことは、たくさんあります。相手に踏み込みすぎて傷つけてしまうことも多々あるでしょう。どんなに言ってもわかってもらえない、もどかしさを感じることもあるでしょう。

それでも、話し合っていくことしか、関係を深めていくことはできません。

そんな「葛藤しつつ対話する力」こそが、アサーティブな態度を支えていくのだと私は思います。