8月が終わりになります。学生の方々にとっては、今週末が夏休みの最後。私たちも、少しだけ静かだった8月を終え、秋の研修ラッシュに備えているところです。
さて、先日は大阪近辺のある会社の管理職を対象としたアサーティブネス研修を担当しました。「管理職」ということで、40代の生真面目な方々を想像していたところ、20代から30代の大変元気な方々ばかり。みなさんお互いをニックネームで呼び合うところから、すでに和気あいあいとしています。
別の会社でもそうでしたが、若いメンバーが多いと水平の話し合いがとりやすいですね。年齢が近いということで、いろんなことをよく話し合っている様子が、どちらの会社でも見受けられました。
ただし、日ごろのコミュニケーションが取れているということと、社内で本当に伝えたいことが相手にちゃんと伝わっているかということは、ちょっぴり別物のようです。年齢が近いということで、話しやすいというメリットもありますが、年が近い分、「しっかりと向き合ってきちんと話す」ということがちょっぴり苦手で、冗談っぽい口調になったり、相手に嫌われないように遠まわしになってしまったりするようです。
ここでアサーティブネスの「対等性」が試されます。
アサーティブネスの対等性は、決してお互いが平等だからタメ語で話す、ということではありません。あるいは、職務の上下を超えて思ったことを何でもバンバン話すということでもありません。
組織の中で対等であるとは、職位の違いを認識した上で、「上司として」「あるいは部下として」相手と向き合って立ちつつ、相手を同じひとりの人間として尊重して話すということです。そうしたバランス感覚を持って、違う立場の人に対してもしっかりと自分の意見を伝えられるようになれば、組織の風通しもずいぶんよくなっていくのではないでしょうか。
若いということは学ぶ意欲が高いことでもあります。くだんの会社の「管理職」のみなさんは、ワイワイ議論しながらもしっかりとアサーティブネスの理論を吸収して、明るい顔で帰っていかれました。暑い大阪ではありましたが、みなさんのさわやかな笑顔で私の心もさわやかになった一日でした。
年齢が近い場合の対等性
田舎の風景
今週は出張が続いています。まずは福岡、それから岡山で週末を過ごし、それから神戸に寄って大阪経由で東京へ、という、長い旅を1週間かけて行っています。
福岡では、お世話になっている会員の方の学校でアサーティブネスについてお話しする機会をいただきました。先生方がほとんどで、大変熱心にお話を聞いてくださいました。おりしもその夜は、博多でも有名な「大濠公園6000発の花火大会」でした。疲れていたのでホテルで休んでいましたが、テレビでの中継と外から聞こえてくる花火の音と合わせて、博多の花火を楽しみました。
さて翌日はその足で岡山へ。週末のお仕事を兼ねて実家の両親の元に戻っています。午前中に出発したので、夕方からの台風にぶつかることなく帰ってくることができました。
私の実家は、岡山駅からさらに南に1時間、海のそばの小さな町にあります。ローカル線の窓から見える田んぼは青々としていて、しばらくすると山と海のにおいがしてきます。懐かしい風景に近づくたびに、子ども時代の私も近づいてくるような錯覚にとらわれます。
ちなみに、私自身は18歳までほとんど電車に乗ることもなく、学習塾に通うこともなく、自由に育ちました。歩いて10分程度に海があり、夏は海で遊んで真っ黒になっていました。
子どもの頃泳いだ海は、今はもう、ありません。ビーチのあった場所には新しい港ができ、子どもたちの姿は消えて、コンクリートの建物が並んでいます。
でも不思議なことに、反対側の山側は20数年前とまったく変わっていません。私が通った保育園も小学校も、外見は古くなりましたが、あの時と変わらず今も子どもたちが大勢通っています。山に行くと、子どもの頃、ささ舟を作って流して遊んだ川や、かっぱが出るぞと大騒ぎした池も、今も変わらず残っています。
18歳で上京して、今では東京にいる時間のほうが長くなったにもかかわらず、実家に戻るとやっぱり自分は地方の人間だなあとつくづく感じてしまうのです。
今日は少しだけ息抜きをして、また始まる仕事の波の準備をすることにしましょう。
福岡では、お世話になっている会員の方の学校でアサーティブネスについてお話しする機会をいただきました。先生方がほとんどで、大変熱心にお話を聞いてくださいました。おりしもその夜は、博多でも有名な「大濠公園6000発の花火大会」でした。疲れていたのでホテルで休んでいましたが、テレビでの中継と外から聞こえてくる花火の音と合わせて、博多の花火を楽しみました。
さて翌日はその足で岡山へ。週末のお仕事を兼ねて実家の両親の元に戻っています。午前中に出発したので、夕方からの台風にぶつかることなく帰ってくることができました。
私の実家は、岡山駅からさらに南に1時間、海のそばの小さな町にあります。ローカル線の窓から見える田んぼは青々としていて、しばらくすると山と海のにおいがしてきます。懐かしい風景に近づくたびに、子ども時代の私も近づいてくるような錯覚にとらわれます。
ちなみに、私自身は18歳までほとんど電車に乗ることもなく、学習塾に通うこともなく、自由に育ちました。歩いて10分程度に海があり、夏は海で遊んで真っ黒になっていました。
子どもの頃泳いだ海は、今はもう、ありません。ビーチのあった場所には新しい港ができ、子どもたちの姿は消えて、コンクリートの建物が並んでいます。
でも不思議なことに、反対側の山側は20数年前とまったく変わっていません。私が通った保育園も小学校も、外見は古くなりましたが、あの時と変わらず今も子どもたちが大勢通っています。山に行くと、子どもの頃、ささ舟を作って流して遊んだ川や、かっぱが出るぞと大騒ぎした池も、今も変わらず残っています。
18歳で上京して、今では東京にいる時間のほうが長くなったにもかかわらず、実家に戻るとやっぱり自分は地方の人間だなあとつくづく感じてしまうのです。
今日は少しだけ息抜きをして、また始まる仕事の波の準備をすることにしましょう。
移動時間の使い方
出張の多い仕事をしていると、移動の時間をどう使うかということが結構悩みの種になります。
以前はモバイルパソコンを持ち歩いて、新幹線の中でも仕事をしていたのですが、新幹線は結構揺れるために画面を見ることができず、パス。次に、語学の勉強に専念していた時期もありました。スペイン語を勉強中なので、2年間くらいは中央線に乗るたびに、ラジオスペイン語講座のCDをくり返し聞いていた時もありました。
最近はどうかというと、もっぱら小説を読んでいます。
私の場合、気に入った著者が見つかったら、全巻読破したいタイプです。これまでは海外小説で、アーサー・ヘイリー、パトリシア・コーンウェル、ジョン・グリンシャムなどは、全巻読んでしまいました。
今年に入って、ふとしたきっかけで読み始めたのが、宮部みゆき。あっという間に全巻読み終えてしまい、次に手に取ったのが篠田節子。彼女のダイナミックで面白いストーリー展開にすっかり魅せられて、次から次へと手に入れてまたまた全部読んでしまいました。
うーん、次はどうしましょう、と、現在迷い中でございます。
講演や講座では、頭も体もフル回転して、一日が終わる頃にはへとへとになっています。帰りの電車で疲れた頭をリフレッシュし、気持ちを切り替えるには、別世界に飛ぶのが一番です。
電車の中ですから、単行本は重くて無理。ですので、いつの間にやら文庫本ばかりが自宅の本棚を埋め尽くすようになりました。
事務局には“本の虫”さんが何人かいて、家でも寝る前や休日に本を読んで過ごすそうです。しかし、私の場合は移動時間の読書が主です。寝る前に本を読もうとすると、そのまま目が閉じてしまい、あっという間に夢の中だからです。
次の著書を誰に定めようかと現在迷い中。これもまた楽しい時間です。
以前はモバイルパソコンを持ち歩いて、新幹線の中でも仕事をしていたのですが、新幹線は結構揺れるために画面を見ることができず、パス。次に、語学の勉強に専念していた時期もありました。スペイン語を勉強中なので、2年間くらいは中央線に乗るたびに、ラジオスペイン語講座のCDをくり返し聞いていた時もありました。
最近はどうかというと、もっぱら小説を読んでいます。
私の場合、気に入った著者が見つかったら、全巻読破したいタイプです。これまでは海外小説で、アーサー・ヘイリー、パトリシア・コーンウェル、ジョン・グリンシャムなどは、全巻読んでしまいました。
今年に入って、ふとしたきっかけで読み始めたのが、宮部みゆき。あっという間に全巻読み終えてしまい、次に手に取ったのが篠田節子。彼女のダイナミックで面白いストーリー展開にすっかり魅せられて、次から次へと手に入れてまたまた全部読んでしまいました。
うーん、次はどうしましょう、と、現在迷い中でございます。
講演や講座では、頭も体もフル回転して、一日が終わる頃にはへとへとになっています。帰りの電車で疲れた頭をリフレッシュし、気持ちを切り替えるには、別世界に飛ぶのが一番です。
電車の中ですから、単行本は重くて無理。ですので、いつの間にやら文庫本ばかりが自宅の本棚を埋め尽くすようになりました。
事務局には“本の虫”さんが何人かいて、家でも寝る前や休日に本を読んで過ごすそうです。しかし、私の場合は移動時間の読書が主です。寝る前に本を読もうとすると、そのまま目が閉じてしまい、あっという間に夢の中だからです。
次の著書を誰に定めようかと現在迷い中。これもまた楽しい時間です。
コミュニティ作りはコミュニケーション作り
ここのところの陽気で、国立の桜の花が一気に開きました。大学通りの桜が青空に映える、美しい春の季節になりました。
さて、1週間ほど前に私は伊豆で講座を担当してきました。呼ばれていった場所は、『ライフハウス友だち村』という場所で、伊豆の修善寺から車で15分、緑と川のそばにある自然に囲まれた美しい場所でした。
『生い立ちや家族関係、人柄や個性、考え方や得手・不得手などを理解し、「人間を丸ごと肯定しあう」ことができれば、お互いに共感し尊重しあう関係性を育てあうことができるのではないかと思います。』(友だち村の歴史)ということで始まった友だち村。実は、私たちのトレーナー養成講座を修了したDさんが、その中心の役割を担っている場所でもありました。
7年ぶりくらいに会ったDさんは、変わらずはきはき話し、凛とした姿勢の素敵な女性のままでした(いや、以前にもまして素敵でした)。
「汐生さん。コミュニティ作りは、コミュニケーション作りね」
開口一番、Dさんはため息まじりにそう話します。
“新しいコミュニティを作る”といっても、価値観もバックグラウンドも違う人たちが、一から話し合いをしながら一つの集合体を作るわけです。コミュニティを作るということは、とりもなおさずコミュニケーションを作るということと同じだというDさんの言葉に、私は深くうなずいていました。
「本当に、アサーティブネスを知っていてよかったわ」。
Dさんはそんな風に言ってにっこりしましたが、その笑顔の裏にある苦労を、私自身は痛いほど感じていました。新しいものを一から作り上げていく大変さ。きっと並々ならぬ苦労もあったことでしょう。
アサーティブネスのスキルを知っているということも大切ですが、Dさんの姿に見たのは、理念を持ち目標を共有しつつ、粘り強く話し合いを続けていく忍耐と、対等な姿勢、人間関係を丁寧に作っていこうとする希望、そして時々くじけそうなときに自分と仲間をねぎらうことを忘れない優しさでした。
そんなDさんの生きる姿勢そのものが、アサーティブな生き方のモデルであるなあと、心から感じた週末の体験でした。
みなさんも、チャンスがあったらぜひ訪れてみてください。
さて、1週間ほど前に私は伊豆で講座を担当してきました。呼ばれていった場所は、『ライフハウス友だち村』という場所で、伊豆の修善寺から車で15分、緑と川のそばにある自然に囲まれた美しい場所でした。
『生い立ちや家族関係、人柄や個性、考え方や得手・不得手などを理解し、「人間を丸ごと肯定しあう」ことができれば、お互いに共感し尊重しあう関係性を育てあうことができるのではないかと思います。』(友だち村の歴史)ということで始まった友だち村。実は、私たちのトレーナー養成講座を修了したDさんが、その中心の役割を担っている場所でもありました。
7年ぶりくらいに会ったDさんは、変わらずはきはき話し、凛とした姿勢の素敵な女性のままでした(いや、以前にもまして素敵でした)。
「汐生さん。コミュニティ作りは、コミュニケーション作りね」
開口一番、Dさんはため息まじりにそう話します。
“新しいコミュニティを作る”といっても、価値観もバックグラウンドも違う人たちが、一から話し合いをしながら一つの集合体を作るわけです。コミュニティを作るということは、とりもなおさずコミュニケーションを作るということと同じだというDさんの言葉に、私は深くうなずいていました。
「本当に、アサーティブネスを知っていてよかったわ」。
Dさんはそんな風に言ってにっこりしましたが、その笑顔の裏にある苦労を、私自身は痛いほど感じていました。新しいものを一から作り上げていく大変さ。きっと並々ならぬ苦労もあったことでしょう。
アサーティブネスのスキルを知っているということも大切ですが、Dさんの姿に見たのは、理念を持ち目標を共有しつつ、粘り強く話し合いを続けていく忍耐と、対等な姿勢、人間関係を丁寧に作っていこうとする希望、そして時々くじけそうなときに自分と仲間をねぎらうことを忘れない優しさでした。
そんなDさんの生きる姿勢そのものが、アサーティブな生き方のモデルであるなあと、心から感じた週末の体験でした。
みなさんも、チャンスがあったらぜひ訪れてみてください。
自分の要求をはっきり口に出すこと
アサーティブネスの『12の権利』の最初の権利は、このように表現されています。
I have the right to state my own needs and set my own priorities as a person independent of any roles that I may assume in my life.
直訳するとこんな風になります。
「私には、どんな役割からも自由になったひとりの人間として、自分のニーズをはっきり口に出し、自分のための優先順位を決める権利を持っている」
自分のニーズをはっきり口に出すということ。当たり前のような権利ですが、若い世代には、「自分の要求がよくわからない」と言う人が増えてきているような気がします。
自分は現状をこのように見ている、それに対してこのように感じている、だから、私はこのように望んでいる、ということが、よくわからないというのです。こんなことを言うとあの人はどう思うだろう、こんなことを言ったら周りはどう考えるのだろうか。それを心配していると、自分が何を望んでいるのかすらわからなくなるというのです。
さて、そんなことを考えながら大阪のあるホテルに宿泊していました先週末。ちょうど甲子園が始まったので、ホテルは高校野球、少年野球の少年たちで一杯でした。
朝食のときのことです。私のナナメ向こうに座っていた男の子(多分12歳くらい)が、オレンジジュースをひざの上にこぼしてしまいました。
あれあれ、と思って、どうするのかなあと見ていましたら、あっという間に四方八方から手が伸びてきて、3人くらいのお母さんが、その子の洋服をふき始めたのです。男の子が何も言わないうちに、洋服はすっかりきれいになりました。
自分が困った状況にあるとき、「このように困っているから助けてほしい」という当たり前の要求を主張する前に、助けがやってくる、問題解決されてしまうということが、少子化の時代になってますます増えつつあるような気がします。男の子が困るのではなく、オレンジジュースをつけた野球の服を着せたくないと、親が困っているのです。
そんな大人の都合の論理の果てに、子どもたちがきちんと自分の「権利」を主張し、自分の行動に対して責任を取るという態度を身につけていくとは思えません。
自分の要求がわからない、自分が何を望んでいるのかわからないという若い世代を見るたびに、大人である私たち自身の責任を痛感してしまいます。要求をどのように伝えるかという前に、自分は何を望んでいるのかを認識し、言語化するという力を身につけることに取り組んでいく必要があるのかもしれません。
I have the right to state my own needs and set my own priorities as a person independent of any roles that I may assume in my life.
直訳するとこんな風になります。
「私には、どんな役割からも自由になったひとりの人間として、自分のニーズをはっきり口に出し、自分のための優先順位を決める権利を持っている」
自分のニーズをはっきり口に出すということ。当たり前のような権利ですが、若い世代には、「自分の要求がよくわからない」と言う人が増えてきているような気がします。
自分は現状をこのように見ている、それに対してこのように感じている、だから、私はこのように望んでいる、ということが、よくわからないというのです。こんなことを言うとあの人はどう思うだろう、こんなことを言ったら周りはどう考えるのだろうか。それを心配していると、自分が何を望んでいるのかすらわからなくなるというのです。
さて、そんなことを考えながら大阪のあるホテルに宿泊していました先週末。ちょうど甲子園が始まったので、ホテルは高校野球、少年野球の少年たちで一杯でした。
朝食のときのことです。私のナナメ向こうに座っていた男の子(多分12歳くらい)が、オレンジジュースをひざの上にこぼしてしまいました。
あれあれ、と思って、どうするのかなあと見ていましたら、あっという間に四方八方から手が伸びてきて、3人くらいのお母さんが、その子の洋服をふき始めたのです。男の子が何も言わないうちに、洋服はすっかりきれいになりました。
自分が困った状況にあるとき、「このように困っているから助けてほしい」という当たり前の要求を主張する前に、助けがやってくる、問題解決されてしまうということが、少子化の時代になってますます増えつつあるような気がします。男の子が困るのではなく、オレンジジュースをつけた野球の服を着せたくないと、親が困っているのです。
そんな大人の都合の論理の果てに、子どもたちがきちんと自分の「権利」を主張し、自分の行動に対して責任を取るという態度を身につけていくとは思えません。
自分の要求がわからない、自分が何を望んでいるのかわからないという若い世代を見るたびに、大人である私たち自身の責任を痛感してしまいます。要求をどのように伝えるかという前に、自分は何を望んでいるのかを認識し、言語化するという力を身につけることに取り組んでいく必要があるのかもしれません。